ダンナに自分の匂いを付けるイナリワン
1 : キミ   2025/11/13 19:16:00 ID:m7PqEuMEV2
「じゃあ、行ってくるよ」
 玄関口で靴を履きながら、イナリトレは妻に言った。
 丹念に磨かれた革靴に、パリッとしたスーツ姿、今日はトレセン学園に招かれて講演をする予定だ。
「おう!いってらっしゃい!気を付けてな!」
 イナリワンは元気よく言った。
 Tシャツにスウェットパンツというラフな恰好なのは、今日は畳職人の仕事が休みなためだ。
2 : お兄ちゃん   2025/11/13 19:17:51 ID:m7PqEuMEV2
「おっと、ネクタイが曲がってるぜ」
「ああ、ありがとう」
 イナリワンは夫のネクタイに手を伸ばし、位置を整える。
 それと同時に、尻尾をはたきのように使って、夫の身体のあちこちをぺしぺしとはたく。
 はたかれていない場所が無くなるくらい、念入りにはたいていく。
「埃でもついてたかな」
「てやんでい!虫よけみたいなもんよ。そんじゃ改めて、いってらっしゃい!」
3 : トレ公   2025/11/13 19:22:31 ID:m7PqEuMEV2
 トレセン学園は、イナリトレが籍を置いていた頃と変わりはない。
 レースコースでは、才気あふれるウマ娘たちが、風を切って駆けている。
 イナリトレは観客席の手すりに寄りかかり、心躍る気持ちでそれを眺めていた。
 新たな世代が、新しい時代を切り開く。それを目の当たりにしている気分だった。
4 : トレ公   2025/11/13 19:24:39 ID:m7PqEuMEV2
『学園には若い奴らがいるからなあ。ダンナを取られちまうかもな』
 イナリが冗談半分に言っていたことも、あながち的外れじゃないなと思う。
 現に、溢れる才能がありながらも、未だトレーナーが付いていないウマ娘が、目の前に大勢いるのだから。トレーナーとして目移りしてしまう。
 だが、自分は大井レース場に所属して、チームトレーナーをしている身だ。その辺りはちゃんとわきまえているつもりだ。
5 : トレ公   2025/11/13 19:27:41 ID:m7PqEuMEV2
「彼女たちが気になりますか?」 
 横から声をかけてきたのは、たづなさんだ。
 学園長は背が伸びたと聞いているが、たづなさんは驚くほど何も変わっていない。
 イナリトレは、笑って言う。
「G1ウマ娘の原石が目の前にいたら、そりゃ気にもなりますよ。」 
「でしたら、中央に戻ってみては?学園は、いつでもトレーナーを募集していますよ」
「すみません、今は大井に所属する身です。預かっている子たちを裏切れませんよ」
「大井に所属していても、臨時トレーナーとして時々来て頂けるだけで、すごく助かるのですが……」
 たづなさんがイナリトレに近づいた時、彼女の鼻が何かを感じ取ったように動いた。
6 : 大将   2025/11/13 19:29:17 ID:m7PqEuMEV2
「……そうですか。すみません、今の話は忘れて下さい」
 たづなさんは、残念そうに眉を下げる。
 急に提案を止めた理由は分からないが、たづなさんの申し出も当然だ。
 名だたるG1ウマ娘のトレーナーたちが、担当の引退と共に学園を去っていくとなれば、一人でもトレーナーを呼び戻したくなるというものだ。
「そろそろ、講演の時間です。準備をお願いします」
「分かりました。すぐ行きます」
 ターフを駆けるウマ娘たちをじっと見た後、イナリトレは体育館の方へ歩き出した。
7 : トレピッピ   2025/11/13 19:30:17 ID:m7PqEuMEV2
 芝でもダートでも結果を出したウマ娘、それがイナリワンだ。
 東京大賞典と有馬記念の両方で勝利した功績は、特に評価されており、その結果に貢献したイナリトレのトレーナー技術も評価されている。
 体育館で行われた講演は、芝でもダートでも通用する技術を簡潔にまとめた内容で、学園のトレーナーや生徒からの反応も上々だった。
8 : キミ   2025/11/13 19:32:28 ID:m7PqEuMEV2
(さて、学園長に挨拶して帰るか……)
 講演が終わった後、イナリトレが校舎の廊下を歩いていると、向こうから一人の生徒が駆け寄って来た。
「すみません、トレーナーさん!お話があるんです!」
 あちこち走り回ってイナリトレを探していたのか、額に汗を浮かべている。
「どうしたんだい?」
「お願いです!私のトレーナーになってください!」
 イナリトレはぎょっとする。初対面の相手にトレーナーになって欲しいなんて前代未聞だ。それと同時に、自分がイナリをスカウトしたのは初対面の時だったな、と思い出して、心の中で苦笑いする。
9 : お兄さま   2025/11/13 19:34:36 ID:m7PqEuMEV2
「急にどうしたんだ?」
「講演のお話を聞いて思ったんです!芝でもダートでも勝てる、すごいウマ娘になってやるって!」
「でも、最初は芝かダートのどちらかに集中するべきだ」
 イナリトレはきっぱりと言う。
「それに、俺は大井のトレーナーだ。中央で走るなら、君のトレーナーになれないよ」
「私、イナリワンさんに憧れてるんです!」
 イナリワンの名前を出されて、イナリトレの心が動く。
「イナリに……?」
「あんな風に、力強くてすさまじい走りをしたくて……時々でいいんです、トレーニングを見てもらうだけでも……」
「それは……」
10 : トレーナー   2025/11/13 19:38:17 ID:m7PqEuMEV2
「私もお願いします!」
 気づいたら、他の生徒がイナリトレのそばにいた。
「イナリワンさんに憧れてるんです!」
「私も!」
「私もお願いします!」
 気づけば、イナリトレは大勢の生徒に取り囲まれて、身動きが取れなくなっていた。
「ま、待った!無理だって!」
「お願いします!」
「あのイナリワンさんのトレーナーさんに見て欲しいんです!」
「G1ウマ娘になりたいんです!」
 周りをぐるりと囲まれて、退路が無くなっていた。
 無理に通り抜けて逃げようにも、ウマ娘のパワーにはかなわないだろう。
 絶体絶命だ。   
11 : 相棒   2025/11/13 19:38:55 ID:m7PqEuMEV2
 しかし、生徒たちがイナリトレにさらに詰め寄った時、急に生徒たちの顔色が変わった。
 お化けか何かを見てしまったかのように、顔を青くして、イナリトレから離れていく。
「その、すみませんでした……」
「すみません……」
「ごめんなさい……」
 生徒たちは次々に謝って、教室の中や廊下の向こうへと散っていった。
「いきなりどうしたんだ?」
12 : マスター   2025/11/13 19:39:51 ID:m7PqEuMEV2
 イナリトレが困惑していると、聞き覚えのある声がした。
「なんやなんや騒がしいな」
 教室から出てきたのは、イナリワンの友人のタマモクロスだ。
「タマモクロスか……久しぶり」 
「久しぶりやな、イナリのダンナさん。あんたらの結婚式以来やな」
「どうしてここに?」
「後輩の顔を見に来たってとこや。それにしても大変やったな。みんな結果出すのに必死なんや、G1ウマ娘のトレーナーが一人で歩いとったら、あっという間に襲われるで」
「気を付けるよ」
「そういえば、イナリは元気にしとるか?」
 そう言って、イナリトレに近づくと、タマモクロスは露骨に顔をしかめた。
13 : モルモット君   2025/11/13 19:41:56 ID:m7PqEuMEV2
「あー……イナリのやつ、学園に行くってだけでここまでするんか……いや、ウチもダーリンにやるかもなあ……」
「どうしたんだ?」
「匂いや。ウマ娘にしか分からんかもな」
「匂い?そんなにひどいか?」
 イナリトレが自分の匂いを嗅ぐと、タマモクロスは手を振って否定する。
「ちゃうちゃう、イナリの匂いや。アンタの全身、イナリの匂いまみれや。イナリの顔が見えるくらいにな」
 タマモクロスは、しかめっ面でイナリトレの肩のあたりを指さした。
14 : お姉ちゃん   2025/11/13 19:42:58 ID:m7PqEuMEV2
「目かっぴらいて、歯を剥き出しにしたイナリの顔や。あいつらが逃げるわけやなあ、こんなおっそろしいのが付いてんやから。さっさと帰ったほうがええで、ここの連中が怯えるからな」
 タマモクロスは、廊下の向こうへと歩き出す。
「まったく、イナリの独占欲なんか見てられんわ。また今度な、ダンナさん」
 タマモクロスが去った後、ぽかんとした顔で、イナリトレは自分の腕の匂いを嗅いだ。
 スーツの布の匂い以外、何も嗅ぎ取ることはできなかった。
15 : トレーナー君   2025/11/13 19:46:11 ID:m7PqEuMEV2
 その日の夜。夕食の場で、イナリトレはイナリワンに言った。
「今日、学園で生徒たちに会ったんだけどさ」
「そいつはいいねえ!才気あふれる若手のウマ娘たちってわけかい!」 
 笑顔のイナリワンに、さりげなく言ってみる。
「その……時々でいいから、学園に来てトレーニングを見て欲しいって言われて……」
「それで?」
 イナリワンの顔から、さっと笑顔が消えて無表情になる。
 次の瞬間に鬼になってもおかしくない。そんな緊張感を放つ無表情。
16 : お前   2025/11/13 19:49:47 ID:m7PqEuMEV2
「い、いや、結局断ったよ。大井のみんなを見るのに集中したいって言ったんだ」
 イナリワンの顔に笑顔が戻る。
「そうかい!いやあ、ダンナは偉いねえ。自分の筋ってやつをきっちり通すんだからよ!惚れ直しちまいそうでい!」
「そんな、大したことじゃないよ」
 そう、本当に大したことじゃない。
 イナリトレは思う。
 たづなさんや、生徒たちからの誘いを断れたのは、イナリのおかげだ。
 イナリが朝、尻尾で身体をはたいて、匂いを付けてくれなかったらどうなっていたか。
17 : お前   2025/11/13 19:51:02 ID:m7PqEuMEV2
 そこまで考えて、ふと思う。
 嗅いだだけで、恐ろしいイナリの顔を思い浮かべてしまうような匂い。
 朝、イナリはどれほどの情念を込めて、尻尾で俺の身体をはたいていたのだろう。
 イナリトレは、イナリワンの顔を見る。
 笑顔で夕食を食べている姿からは、そんな殺伐とした印象は全く感じられない。
18 : 使い魔   2025/11/13 19:51:35 ID:m7PqEuMEV2
「どうしたんでい?そんなにじろじろ見られたら、照れるじゃねえか」
 デレデレと照れ笑いするイナリワンを見ながら、水面下で行われていたウマ娘たちの静かな戦いのことを考えて、イナリトレは背筋をぶるりと震わせるのだった。
19 : アナタ   2025/11/13 19:53:16 ID:m7PqEuMEV2
【終わり】

20 : トレーナー君   2025/11/13 20:22:22 ID:mFqUs8MNM.
このいつもイナリ系のショート書く人って文才あるよね
21 : トレーナー   2025/11/14 03:45:03 ID:wTl/.4Aw2A
>>20
ありがとうございます。励みになります。
22 : マスター   2025/11/14 17:33:09 ID:ftz92wwvgA
いつも楽しみに読ませてもらってます。
今回もイナリ愛が最高に詰まった
尊い作品でした。
ところでウマ娘にしか分からないかも
知れないイナリの匂いをたづなさんが
感じ取ったって事は、もしかして
彼女はウm
23 : トレ公   2025/11/14 18:27:55 ID:wTl/.4Aw2A
>>22
ご愛読ありがとうございます。それ以上いけない。

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