【①　昼寝】

　昼休み。
　イナリはトレーナー室に置いた畳で、昼寝をするのが日課だ。
　イナリ曰く、「畳の上で昼寝ができりゃ、午後も張り切って頑張れるってもんよ！」という訳だ。
　畳の上で寝ているイナリは、ぐっすりと眠っているが、あまり近づかないようにしている。理由はもちろんある。

　以前、たまたまトレーナー室にやってきたタマモクロスが、昼寝をしているイナリを見て、耳を触ってやりたいと、いたずらをしようとしたことがあった。
　そろりそろりと、タマモクロスが忍び足で近づき、イナリまであと数歩というところだった。
　イナリはぱちりと目を開けて、タマモクロスを睨んだのだ。
「なんでい！タマじゃねえか！」
「お、起きとったんか！脅かさんといてや！」
「てやんでい！起こしたのはタマの方だろうが！」
「近寄ったくらいで起きるなや！」
「ああ！？」
　と、その後は喧嘩になってしまった。
　つまり、寝ている時のイナリは気配に敏感なのだ。
　

　イナリの寝息を聞きながら仕事をしていると、あることに気が付いた。
　資料が足りないのだ。
　そして、その資料はテーブルの上。寝ているイナリのすぐ傍だ。
　昼休みが終わってから取ろうと思ったが、あれがないと仕事が進まない。
　心を鬼にして、椅子から立ち上がると、なるべく音を立てないようにして歩く。
　一歩、二歩、三歩。
　この間、タマモクロスの接近が気が付かれた位置まで来たが、イナリは起きない。
　時々、ピクリと耳が動くが、寝息に乱れはない。

　四歩、五歩……まだ起きない。
　六歩。イナリのすぐ傍だ。しかし、起きる気配はない。
　ここまで起きないと逆に心配になる。
　イナリを見ると、畳の上で丸くなって、すーすーと寝息を立てている。
　寝顔は穏やかだ。
　いつもはきはきした表情を見ているせいか、こうしてリラックスしているイナリの表情は新鮮だ。
　無防備なイナリを見ていると、邪悪な欲求が沸き上がってきた。
　トレーナーとして、決して従ってはいけない欲求。必死に耐えようとするが、欲求はあまりに強く、激しい。

「ん……」
　イナリが小さい呟きを漏らして、寝返りを打つ。
　もう耐えられなかった。
　イナリの頭を、一回、二回、と優しく撫でる。
　ここまで眠りが深いのも、トレーニングをしたり、後輩の面倒を見たりと、いつも頑張ってるせいだろう。
　イナリがリラックスできるように、何か手助けがしたかった。
　気が済むまでイナリの頭を撫でた後、テーブルから資料を取って仕事に戻った。

「おはようさん、ダンナ！」
「ああ、おはよう」
　昼休み終了直前に、イナリは目を覚ました。
　頭を撫でたことはバレてないのか、特に変わった様子もない。
「なあ、ダンナ……」
　と思ったら、イナリは少しだけ顔を赤くして提案してきた。
「頭を撫でるやつ……毎日やってくれねえかい？」
「……ああ、いいよ」
　どうやら、バレていたらしい。
　この日から、昼休みにイナリが畳の上に寝転がった後、十分ほどイナリの頭を撫でる時間ができたのだった。

【続く】

このBBS文才あるヤツ
多すぎんか？
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②ダンナ呼び

　
　イナリは俺をダンナと呼ぶ。
　学園では、「おうダンナ！今日も一日頑張ろうぜ！」
　大井の商店街では、「ダンナ！和菓子屋で熱いお茶と饅頭でもどうだい？」
　お出かけの時は、「へへっ、ダンナと一緒なら、どこだって楽しいってもんよ！」
　こんな調子だ。
　ダンナと呼ばれ過ぎているせいか、休日に一人で大井の商店街を歩いていると、
「おう、イナリのダンナさん！」
　とイナリがいなくても、声をかけられるほどだ。

　八百屋さんにも、
「イナリのダンナさん！いいナス入ってるよ！」
　と声をかけられ、魚屋さんにも、
「イナリのダンナさんじゃねえか！サンマいるかい？」
　と声をかけられ、和菓子屋さんにも、
「おやおやダンナさん。イナリちゃんにお団子買っていかなくていいのかい？」
　と声をかけられる。
　しまいには、イナリと仲がいい子供たちに、
「イナリのダンナさんだ！」
「イナリとラブラブなんでしょ！」
　とからかわれてしまう。

「俺とイナリがラブラブなんて、誰から聞いたんだ？」
「お母さんが言ってた！イナリとダンナさんはそのうち結婚するって！だからダンナって呼ばれてるんだって！」
　それは誤解だ。イナリのダンナ呼びと結婚は関係ない。
「その、それは違うんだ」
「じゃあ、イナリと仲悪いの？」
「そういうわけでもなくて」
「分かった！ダンナさんはイナリが嫌いなんだ！」
「違う！好きだ！」
「わあ怒った！」　
　けらけら笑いながら、子供たちは走って逃げていく。

　追いかける気にもならず、はあ……とため息をつくと、
「おうダンナ」
　後ろから声がした。
　振り返ると、イナリが立っていた。
　散歩か何かの途中なのか、私服姿だ。
「ダンナが来たって商店街の連中が言ってたからよ。ちょいと歩き回ってたら、声がしてな。そしたら、可愛げのある口喧嘩に出くわしたってわけでい」
　それから、イナリは笑って、
「いやあ、それにしても、怒鳴るくらいあたしが好きだなんてねえ」
「い、いや、つい口に出てしまったというか」
「照れなくてもいいぜ、ダンナ」

　イナリは俺の目前に顔を近づける。
「あたしもダンナのことが、好きだからよ」
　機嫌良さそうに笑うイナリに、俺は顔を赤くして黙っていることしかできなかった。
　その後、イナリと和菓子屋でこし餡団子を食べながら、商店街に広まっている誤解を解く方法を考えていた。
　しかし、イナリが俺のほっぺについた餡子を指ですくって食べたのを、和菓子屋のばあちゃんに見られたせいで、さらなる誤解が広まってしまったのだった。

【続く】

【③　合鍵】

　イナリは、俺が住んでいる部屋の合鍵を持っている。
　部屋に来る機会が多いためだ。
　イナリは姉御気質なところがあり、
「ダンナ、部屋の掃除はしてるかい？今度行ってやってやるよ」
　と、休みの日に掃除してくれる時もあれば、
「聞いたぜダンナ、最近カップラーメンばかり食べてるみてえじゃねえか。適当なもん作ってやるよ」
　と、その日の夜に手料理を作ってくれる時もある。
　その度に、わざわざ鍵を貸すのも面倒ということで、合鍵を作ってイナリに渡したのだ。
「へへ……大事に使わせてもらうぜ、ダンナ」
　合鍵を受け取ったイナリはとても喜んで、キツネのキーホルダーを付けて、いつも持ち歩いているのだった。

　イナリに合鍵を渡していて良かった、と思った日がある。
　その日は、多忙な一日だった。
　普段の仕事に加え、学園長にどうしても手伝って欲しいと頼み込まれて、新型トレーニング設備の電源配線の手伝いを、三時間かけてやったのだ。
　業者が急に来れなくなったが、明日には必ずテスト運用したいという事情らしい。もちろん二つ返事で了承した。イナリもそうしたに違いない。
「感謝！特別手当を必ずつけておく！」と言われて、学園を出たのは夜の八時。
　慣れない作業で疲れた身体を引きずり、マンションの前に到着。明日が休みなのが救いだ。
　まだカップラーメンはあっただろうか、と考えながらエレベーターを降りて、部屋のドアを開けると、照明の明かりが出迎えた。
　電気をつけっぱなしにして出てしまったのか。そう思っていると、奥から威勢のいい声がした。

「ダンナかい？おかえり！」
「イナリ！？どうしてここに？」
　靴を脱ぎ、手洗いうがいをしてからリビングに入ると、キッチンでイナリが料理をしていた。
「へへ、ダンナが遅くまで何やら仕事をしてるって聞いたからよ。ちょいと疲れを取ってやろうと思ってな。外泊届を出して、すっ飛んで来たんでい」
　イナリは、鍋から肉じゃがを皿に注いで渡してきた。
「今できたからよ、卓に並べてくんな」
　それを受け取って、テーブルに置く。続いて、茶碗に乗った白飯を渡される。それもテーブルに置く。
　それを繰り返すうちに、夕食の準備が出来ていた。
　白飯に、肉じゃがに、みそ汁。カップラーメンで済ませようとしたのが、馬鹿らしく思えてくる。

「そんじゃ、いただきます！」
　イナリの声に合わせて、俺も手を合わせる。
「いただきます」
　肉じゃがもみそ汁も、ちょうどいい味の濃さで、とても美味しかった。
「でも、悪いな。わざわざ夕食を作ってもらっちゃって」
「てやんでい！気にすんなって！」
「しかし、いいんだろうか。トレーナーとウマ娘という立場で……」
「あたしとダンナは相棒だろ？このくらいなんてことねえさ」
「そうか、ありがとう」
　イナリの心遣いが身に染みるのだった。

　料理の味を絶賛しながら夕食を終えると、風呂に入った。
「ダンナ！背中を流してやるぜ！」
　と、イナリが背中を洗ってくれた。
　ちょうどいい力加減で、とても気持ちいい。
「しかし、いいんだろうか。トレーナーとウマ娘という立場で……」
「あたしとダンナは相棒だろ？このくらいなんてことねえさ」
「そうだな……俺も背中を洗うよ」
「おう！頼むぜダンナ！」　　
　そして、イナリの背中を丁寧に洗ってから、一緒に熱い湯船に入って、たまった疲れを洗い流したのだった。

　風呂から上がって寝室に行くと、布団が敷かれていた。
　しかし、困った。布団が一つしかない。来客用の布団も無い。　
「てやんでい！一緒に寝ればいいじゃねえか」
「しかし、いいんだろうか。トレーナーとウマ娘という立場で……」
「あたしとダンナは相棒だろ？このくらいなんてことねえさ」
「それもそうだな……」
　電気を消して布団に潜り込むと、隣にイナリが入って来たのが分かった。

　俺よりも少し高い体温。ぼんやりそう思っていると、優しい手つきで頭を抱え込まれる。
　イナリの胸の中に。
「ダンナ」
　耳元で、ゆっくりとした穏やかな声。
「寝ちまいな。疲れただろ？」
　イナリの言葉通り、まぶたが重くなってくる。意識は半分以上、眠りの世界に引きこまれている。　　　
「おやすみ、ダンナ」
　どろりと、意識が落ちていく。身体から力が抜けていく。
「……へへっ、毎日でも悪くねえな。こういうのは」
　どこか遠くで、イナリがそう言ってるのが聞こえる。
　安心する温もりと匂いの中、意識は完全に眠りの世界に溶けていった。

【続く】

【④　秋ナス】

「おう！イナリのダンナさん！いいナス入ってるよ！」
　仕事の帰りに、大井の商店街の八百屋を通りがかると、店主のおじさんがナスを勧めてくれた。
「へえ、いいナスですね。とても大きいし……」
「でもよ、残念だったなダンナさん。イナリちゃんに食わせられなくて」
「え？」
「ほら、秋ナスは嫁に食わすなって言うだろ？ははは！」
「あははは！なるほど！」
　ことわざを混ぜて冗談を言うなんて粋だなあ、と思いながら、ナスを買うことを決めた。

「ダンナ！おかえり！」
　自宅に戻ると、イナリの声が出迎えた。リビングに入ると、イナリはお茶を飲みながらテレビで時代劇を見ているところだった。
「ただいま、イナリ」
「おっ、何か買ってきたのかい？」
「ああ、八百屋でナスを勧められたんだ」
　ビニール袋からナスを取り出して見せると、イナリは目を輝かせた。
「ほう、いいナスだねえ。秋ナスってやつだな！」
　と、そこで思った。
　八百屋のおじさんと、同じ冗談を言ってみようと。
「でも、イナリには食べさせられないな」
「なんでだい？」
「秋ナスは嫁に食わすなって言うだろ？」
　ここで、イナリは怒って、『てやんでい！誰だか知らねえが、こんないいナスを食わせないなんて、ケチなこと言うなってんだ！』と言うと思った。

　しかし、イナリは顔を赤くして、「よ、嫁……？」と呟いて固まってしまった。
「イナリ？大丈夫か？」
「お、おう！でもよ、あたしはまだダンナの嫁じゃねえし、ナスを食ってもいいよな？」
「もちろん、そういう冗談のつもりだったんだ」
「てやんでい！だったら、早速うまいナス料理を作ろうぜ！」
　それから、イナリと協力して、ナスの煮付けを作って食べたのだった。

【続く】