面白い競馬の話をするスレ
1 : モルモット君   2024/06/29 22:15:40 ID:kzHL1h2yOo
むかーし昔、イギリスに自ら生産から調教までをこなす風変わりなオーナーブリーダーがいた。
彼の持ち馬の中でも、ある1頭の牝馬は生涯18戦11勝、ランカシャープレートなどを勝ち英オークス2着と大活躍し、繁殖成績にも期待がかかっていた。
ところがその馬は繁殖牝馬としてはまぁ悲惨。1頭が2000ギニー2着ダービー3着などと健闘した以外はそもそも受胎すら厳しいと、とても現役時の期待に応えるものではなかった。

頭を悩ませた馬主の脳裏に、ある奇妙なひらめきが生まれた。
「そういやあの子とあの当て馬めっちゃらぶらぶちゅっちゅだったよなぁ」と。
2 : お姉ちゃん   2024/06/29 22:24:09 ID:kzHL1h2yOo
その当て馬は種付け量も超安値のまあなんともいえない地味な男であったが、例の牝馬とは常にイチャイチャし続ける熱烈な恋愛関係にあった。
ならばやることヤってもらいましょうと、その馬主は周りの「そんな名牝にしょぼい種牡馬をつけるなどともったいない」の意見をガン無視して種付けを敢行。それも馬房でのお見合い形式ですらなく、適当に放牧してその辺で好きにやらせる徹底した自由恋愛であった。

そして産まれたのがこのお方。
3歳春までパッとしない活躍だったにも関わらずダービーで並いる牡馬たちをさっくり危なげなく蹴散らし大波乱を巻き起こし、更には2日後のオークスも制しおまけにその遺伝子は現代でもうっすら残っているという超大逆転馬生を歩んだ名牝・シニョリネッタである。
http://lunameiba.blog.enjoy.jp/.s/jp/Signorinetta.html
3 : 貴様   2024/06/29 22:25:03 ID:8Umu329nwg
🎨愛ね
4 : 貴方   2024/06/29 22:29:02 ID:bQB4L8/2aI
最後に愛は勝つ
5 : お前   2024/06/29 22:39:58 ID:uLpvm2z7GA
🍔「自由恋愛最高ですわ!純愛の結晶こそ至高ですわ!」
6 : トレーナー君   2024/06/29 22:47:26 ID:kzHL1h2yOo
面白い競馬の話をしよう。
2024年のこの現代、1頭の競走馬が走っている。
欧州において絶対的トップステイヤーとして君臨し、欧州平地調教馬としては史上最多の重賞18勝を誇ったストラディヴァリウスに世代交代を告げるように現れ、現役ステイヤーとしてはキプリオスに次ぐG1・3勝を誇る優駿トゥルーシャンには、ただ一つだけ致命的な弱点があった。

この男(セン)、稍重以上でないとろくに走らない。
良馬場で走るくらいならハンデ戦で67キロ背負って馬生初のオールウェザーに殴り込むくらい走らない。
一応その後のG1・グッドウッドカップは良で3着と頑張りはしたが、イギリスのもう一つの長距離トップレースであるアスコット金杯は4回登録して4回全て馬場を理由に回避という徹底ぶりである。
多分彼は前世でカチカチの良馬場が原因で故障でもしたのだろう。
https://world.jra-van.jp/db/horse/H1011667/
7 : トレぴっぴ   2024/06/29 22:57:21 ID:SbZ0zaaziA
面白い競馬のアニメ

https://youtu.be/-xZ0Jg30eCA
8 : アナタ   2024/06/29 23:34:46 ID:kzHL1h2yOo
今から30年ほど前、九州で一人の男が馬産を始めた。
農耕馬の生産や食肉目的での肥育を生業としていた彼は、やがて夢を追いかけて競走馬の生産にも手を出すようになった。
しかしその後相次ぐ不幸により牧場の規模は一気に縮小。それどころか一時は馬5頭と軽トラを除く全てを手放し、移動を繰り返しながらあちこちの農家に間借りする形でやっと食い繋いでいく状態まで追い詰められた。
しかしその苦節の中産まれた馬が超大物オーナーブリーダーの岡田繁幸氏に買われたことをきっかけに、現在の拠点の設営や生産馬の新馬勝ちなどどんどんと躍進を重ね、いつしか彼とその牧場は九州だけでなく全国でもぽつぽつと名前が知られるようになっていった。

その男─本田土寿さんがヨカヨカで熊本産馬初の重賞制覇となる北九州記念を勝利するのは2021年、イロゴトシで九州産馬初のG1制覇を成し遂げたのは2023年のことであった。
https://www.chunichi.co.jp/article/328039
9 : 貴方   2024/06/29 23:39:48 ID:kzHL1h2yOo
その後ヨカヨカは繁殖入りし初年度にキズナ、今年はイクイノックスをつけられるなど絶大な期待を寄せられ、イロゴトシはG1初制覇後夏負けから体調不良が長引き年末の大障害にこそ出られなかったものの、翌年(つまり今年)の中山グランドジャンプでは史上4頭目の連覇(G1連覇ももちろん九州初)を達成。
本田土寿牧場は現在本拠地とは別に郊外に広大な育成拠点を開発中であり、もしかしたら今後北海道の各生産牧場と肩を並べる存在になるのかもしれない。
10 : トレーナー君   2024/06/29 23:46:09 ID:EQuCIeZkBo
昔、コディー・ドーマンという少年がいた。彼は成人するまで生存が稀だとされる難病を患って生まれ、懸命に生きるも鬱屈した日々を過ごしていた。

2018年、コディーの為に何かできることはないか苦心した両親は馬好きの彼のこと考え地元財団の『あなたの夢をかなえましょう』という企画に協力を仰ぎ、財団の協力の元コディーは馬産地に招待される。
そのとき、彼は生後6ヶ月のとある鹿毛の子馬との交流があった。その子馬は車椅子のコディーの膝に頭を置き、暫くの間コディーのそば傍から離れず、大人たちは餌を与えた訳でもないコディーを無条件で受け入れたこの仔馬を不思議に思ったという。
数年後、世界規模のコロナパンデミックが起こると、外へ出れないストレスでコディーは鬱病も患ってしまう。何をしても笑うことができなくなった我が子をどうにかしたい両親は、息子に対して理由もなく懐いていたあの仔馬の存在を思い出し、藁にもすがる思いで同ファームに連絡し特別にあの時の仔馬と再会することとなった。
しかし、あの時懐いたと言ってもそれは仔馬の時。数年も開けてデビューさえ控えているあの時の馬がコディーを覚えているとは思えなかった。

しかし、コディーがあの時の馬の放牧地へ向かうと、馬は一目散にコディーの元へ駆けつけたのだ。
そして、笑うことができなかったコディーは笑ったのだった。

この感動的な出来事に感銘を受けた仔馬を買い付けた馬主はコディー家族に一つの提案をした。それはこの馬にコディー少年の名前を拝借してそれを競走馬名にしたいという内容だった。
家族の了承を得たこの馬はコディーの願い、”Cody’s Wish”という馬名でデビュー、生涯成績16戦11勝、内G1級を4回勝利するという名馬となり、コディーの為に、「コディーの願い」を背負って走り切ったのだった。
11 : アナタ   2024/06/29 23:50:33 ID:TNcNTuDVtI
12 : キミ   2024/06/30 00:19:15 ID:Dn5bb5/s6Q
20世紀ももうすぐ終わろうかという頃に、とある馬がセリにかけられた。
その馬の名はイスタブラク。イギリスのトップトレーナーであるジョン・ゴズデン厩舎に預けられたはいいがろくに活躍できず、次の行き先を決めあぐねての競売であった。
そんな彼に目をつけたのは、調教助手兼元アマチュア騎手であったジョン・ダーカンさん。以前よりイスタブラクに障害レースの才能を見出していた彼はある馬主にイスタブラクを売り込み、自らは独立しそれぞれ調教師と管理馬の立場から再出発を始めたのであった。
が、活動開始から間も無くダーカン師は急性骨髄性白血病を患い入院。そこで彼は無二の友人にして当時は障害レースのトップトレーナーとして活躍し、後に世界に名を轟かせる欧州一の名伯楽となるエイダン・オブライエン調教師に代役を依頼。世にも珍しい二人と一頭のレース生活が始まった。
13 : あなた   2024/06/30 00:36:38 ID:Dn5bb5/s6Q
二人の名手の薫陶と名手チャーリー・スワン騎手のアシストを受けたイスタブラクの活躍は正に"覚醒"とも言うべき変容っぷりであり、所詮こそ2着となったものの各地のG1も含めた大レースで怒涛の快進撃。躓いても入れ込んでもぶつかられても尚闘志を燃やして走り続ける姿はダーカン師の生きる糧となり、そしていつしか膨大な数となっていたファンの希望にもなっていた。

が、運命とは時に残酷なもの。アイルランド最大のレースの一つである愛チャンピオンハードルを前にして、ダーカン師は早すぎる死を迎えてしまう。
本番当日、イスタブラクは会場を包む異様なプレッシャーの中それでも懸命に走り続け、まるですぐ隣のダーカン師に餞を送るかのような壮絶なデッドヒートの末見事に勝利。
ダーカン師を讃える「J・D」コールの中、堂々とウィナーズサークルへ向かうイスタブラクの背ではスワン騎手が喪服代わりの黒い腕飾りに勝利を告げ、表彰式ではオブライエン師は「これはジョンのためのものだ」と舞台に上がることを拒否し、喪服姿のキャロル未亡人がトロフィーを受け取った。
14 : トレーナー   2024/06/30 00:46:27 ID:Dn5bb5/s6Q
その後イスタブラクはイギリスのチェルトナムフェスティバルのメインレースの一つである英チャンピオンハードルでも勝利し英愛の障害短距離(2マイル程度)の頂点へと登り詰め、愛チャンピオンハードル4連覇・英チャンピオンハードル3連覇、他にエイントリーハードルやパンチェスタウンチャンピオンハードル制覇と、世紀末から新世紀にかけての英愛障害レースにおいて消えることのない栄光と、彼を支えたある若い調教師の名前を歴史に刻みつけた。
現役の途中オブライエン師は天下の名オーナーブリーダーであるクールモアからのスカウトを受け平地へ転向し、スワン騎手も調教師資格の勉強に勤しむようになったが、それでもイスタブラクだけは誰にも譲ることなく管理・騎乗し続けたという。
http://lunameiba.blog.enjoy.jp/.s/jp/Istabraq.html
15 : 貴方   2024/06/30 01:14:36 ID:0Rg5fxTerw
競馬というか馬の話だけどいいかな?


『水師営の会見』という唱歌がある。
日露戦争における激戦の一つである旅順攻略戦の停戦条約を締結した日本の乃木大将とロシアのステッセル中将、その情景を唄ったものだ。
その歌詞の中でステッセル中将の言葉として「われに愛する良馬あり。今日の記念に献ずべし」という節がある。
騎馬民族の習俗を色濃く残しているロシア人にとって馬は必需品であり、軍の将校ならば当然のように私有物として馬を持っていた。
そのアラビア種の血を引く芦毛の駿馬をステッセル中将は乃木大将へ個人的に贈ろうとしたが、乃木大将の返答は「厚意は深謝するも、馬は武器の一なるを以て直接拝受するを得ず」と馬は武器であり敵将の私有物であってもこれは戦利品として扱うという、日本軍としての公式に則った対応であった。

この馬はステッセル中将から名を取って「寿(す)号」と名付けられ、乃木大将の乗馬として後に青山練兵場で挙行された凱旋大観兵式にも並んだ。当時の日本馬に比べて体格が良く性格も従順で、乃木大将はこの馬の血統を日本に広げるべきと考え、鳥取県の牧場主・佐伯氏に寿号を寄贈する。
16 : 貴方   2024/06/30 01:14:56 ID:0Rg5fxTerw
馬種改良に熱心であった佐伯氏の元で寿号は多くの仔馬を産出し、その中の一頭を今度は佐伯氏から乃木大将に寄贈した。
この馬は「乃木号」と名付けられた。父である寿号に似て体格の良い綺麗な芦毛の白馬だった。
しかし乃木号と乃木大将の交流は短かった。乃木号が送られてからわずか数カ月後、乃木大将は明治天皇に殉死し世を去る。乃木家の馬丁の語るところによると、乃木大将は自刃する日の朝、たくさんのカステラを両手に抱えて厩に行き、乃木号を含む愛馬達と別れの挨拶をしたという。

その後、乃木号は学習院へ送られた。
乃木大将は生前まで学習院の院長を務めており、その中で馬術教育には力を入れていて、院長自ら馬術の練習を巡視し、遠乗りにも参加していた。
雨の日、雪が降った後は蹄が滑るから乗馬は控えさせ、遠乗りが終わったら自分より先にまず馬に水を与える。乃木大将が馬を気遣う姿は多くの学生の記憶に残っており、馬を通じて若者達に大切なことを伝えようとしていた。
そんな乃木大将の亡き後、学生達から「乃木さん」と呼ばれ親しまれていた乃木号は27歳までの長い馬生を馬術教育に捧げ、今もその勇姿は骨格標本として学習院史料館に面影を残している。
17 : トレーナー君   2024/06/30 11:02:58 ID:Dn5bb5/s6Q
面白いというか知っておくべき話

かつて日本に1頭の馬が種牡馬として輸入された。
ファーディナンドという名のその馬は、アメリカでケンタッキーダービーやハリウッド金杯、BCクラシックなどを制した一流の競走馬であり、多くのファンから"Fred"の相性で親しまれていた。
種牡馬としてアメリカで活躍できず日本に移り住むことになった彼だったが、それはファーディナンドの生産・所有者だったケック夫妻やアメリカでの種牡馬としての運用を行っていたクレイボーンファームとろくな連絡を取らないまま行われた胡散臭いものであり、そしてその後何頭かと種付けをしたことが判明した以外彼に関する情報は途絶してしまった。
2003年、ファーディナンドに関する情報が途絶えたことに疑問を抱いた夫妻とご家族は日本在住の女性記者バーバラ氏に調査を依頼。バーバラ氏が日本でファーディナンドを譲り受けた人物に問いただすと、その人物ははじめは誤魔化していたものの、やがて観念したかのように衝撃的な言葉を告げた。
18 : お姉さま   2024/06/30 11:17:52 ID:Dn5bb5/s6Q
「ファーディナンドは02年9月時点で種牡馬登録を抹消され廃用となった。」

"廃用"の意味するものを知っていた彼女がそれを報じるや否や、アメリカはもちろん世界の競馬界を巻き込む大論争へと発展した。
クレイボーンファームの経営陣の一人は「ファーディナンドのためと思っていたが、今ではあれは我々の恥だ」と感情を吐露し、ファーディナンドを繋用さていたアロースタッドの厩務員は「彼の身に怒ったことに怒りを表したい」と現場の一スタッフとしてのコメントを発した。
アメリカでは数年前のスウェーデンでエクセラー(アファームドとシアトルスルーを破りジョッキークラブ金杯を勝利した馬)の屠殺をきっかけに、引退馬の福祉環境の整備をしようという機運が高まりつつあった。そんな中で起こったこの事件は日本の競馬界そのものの信頼を大きく毀損するものであり、結果として「日本に馬を売るな!いるなら連れ戻せ!」という敵対感情が爆発(まあ必然だけど)。実際にクリミナルタイプやサンシャインフォーエバーなど一部の馬がアメリカへ引き戻されることとなった。
19 : お兄ちゃん   2024/06/30 11:24:40 ID:s7h2YpZEfE
ソダシって白馬じゃん




尾も白いんだよ
20 : お兄ちゃん   2024/06/30 11:28:36 ID:Dn5bb5/s6Q
またその後シルバーチャームやロージズインメイのようなアメリカの馬を日本が導入する際には「種牡馬運用が終わったら返してね」という契約も同時に交わされるようになった。
こうして日本競馬界の特大の汚点となった今回の事件だが、一方でこのファーディナンドの騒動(とエクセラーの事件)は日本とスウェーデンの馬の福祉問題だけでなく、過酷なローテで走り続けた末引退すら出来ず亡くなる馬の存在や、食肉加工されないだけで活躍できない・できなくなった馬を安楽死させることが定着していたこと、更にその後アメリカの引退馬が「馬肉文化のある」カナダに経緯や目的を誤魔化しつつ輸出していた連中がいたことが判明するなど、アメリカ自身の引退馬福祉に大きな疑惑と欺瞞を叩きつける出来事にもなった。
別に馬を食肉や動物の餌にすること自体は何も問題はないんだけどまぁやり方とか"実績馬すら引退後を保障されない事実がレースの価値にどんな影響を与えるか"とかは考える必要があるよねぇ
http://lunameiba.blog.enjoy.jp/.s/jp/Ferdinand.html
21 : トレーナー君   2024/06/30 12:55:01 ID:0Rg5fxTerw
>>20
漫画『優駿劇場』でもサンデーサイレンスがファーディナンドの存在に触れて、外国産種馬として大きな危機感を持って種牡馬の仕事をしていることを吐露してるよね
22 : アネゴ   2024/06/30 14:54:39 ID:ZRTZi/DWlM
>>5
お前は媚薬盛った定期
23 : キミ   2024/06/30 17:40:13 ID:Dn5bb5/s6Q
芝ダート問わず、斤量もなんのそので7〜8ハロン路線を蹂躙し、当時の芝ダート両方合わせての1マイルワールドレコード&現在のダート1マイルワールドレコードを樹立したアメリカ史上のダートマイラーことドクターフェイガー(表記揺れ多し)には、何かと奇天烈なエピソードが多い。
例えば彼の名前の由来は調教師のネルド師の手術を単体した医師のフェイガー博士なのだが、博士はその後ドクターフェイガーの活躍をきっかけにネルド師と再開し、師の100歳の誕生日(2013年)をお祝いしに行くほどの盟友となったそうな。
また真偽は不明だが、引退後に馬運車に乗せられ故郷の生産牧場へ向かう道中には警察に見つかり"馬が"スピード違反を指摘され"Dr.Fager"名義の切符が切られたなどという愉快な話もある。
他にも競馬作家にやけに詩的にベタ褒めされたり早逝した馬に反して関係者のみなさんはやけに80代90代オーバーが多かったりと、なんともファンタジックというか漫画みたいなやつである。
http://lunameiba.blog.enjoy.jp/.s/jp/DrFager.html
24 : アナタ   2024/06/30 21:34:38 ID:Dn5bb5/s6Q
「同厩の仲良しコンビ」みたいな関係の馬は古今東西どこにでもいるが、現役から引退までずっと同じ場所で過ごすような馬はあまり多くない。まして両者共にG1レースや海外で暴れ回った最強コンビのような存在となると日本ではラヴズオンリーユーとマルシュロレーヌくらいだろう。
しかし今この時代に、彼女たちのようなズッ友エターナルな最強コンビが現在オーストラリアの引退馬繋用牧場であるリヴィングレジェンドファームで暮らしているのだ。

彼らの名前はサイレントウィットネスとブリッシュラック。片や数々の香港レコードや世界レコードを打ち立て香港競馬を大衆娯楽へと引き上げた史上最高のスーパースター、片やピンかパーかの極端な活躍で話題を呼び、そしてサイレントウィットネスに初めて土をつけて香港中を大騒ぎさせたトリックスターである。
https://twitter.com/LivingLegendsAU/status/1798656402711318929
25 : 使い魔   2024/06/30 21:44:34 ID:Dn5bb5/s6Q
誕生日こそ北半球産のブリッシュラックと南半球産のサイレントウィットネスでズレがあるものの同じ1999年に産まれた彼らは本来の所属から香港へ移籍し、ブリッシュラックが香港で更に転厩したことで出逢いを果たすと巨漢同士シンパシーでもあったのかそのまま意気投合。引退後の今でもお隣さんとして並んで走ったりにんじんを横取りしに来たりとゆるく仲良く平和に過ごしているとか。

ちなみに前海外競馬のツアー調べてた時HISのメルボルンカップのツアーでリヴィングレジェンド行くプランもあったので
もし興味があるなら&今年や来年以降もリヴィングレジェンドに行くプランがあるなら行ってみるのもいいかもしれない
ビューティージェネレーションやミスタースタニングとかもいるよ
https://twitter.com/LivingLegendsAU/status/1793914973611016249
26 : お兄ちゃん   2024/06/30 22:52:49 ID:0Rg5fxTerw
西郷隆盛といえば幕末から明治にかけて活躍した知らぬ人もない日本史上の巨人であるが、その弟の西郷従道も兄と同じく幕末の風雲の中で活動し、その後も日本の陸軍・海軍の発展に大きな力を発揮するなど多くの事績を残した人物である。
その西郷従道だが、日本人初の近代競馬に参加した馬主であり、同時に日本人初の近代競馬の勝利騎手であるという履歴も持っている。

1866年、英国駐屯軍ポンド中尉による監督のもと、横浜に居留する外国人のために日本初の競馬場として根岸競馬場が建設された。一周1764メートル、幅28.8メートルの右回りコース。150名を収容できるスタンドも作られた本格的な洋式競馬場であった。
当初、根岸競馬場のレースに参加していたのは居留外国人だけだったが、特別会員として日本人も参加するようになる。
1880年、日本レースクラブが設立され日本人の入会が正式に認めれ、会員には明治政府の重鎮が名を連ねていた。同年の6月には日本レースクラブが主催する初めてのレース「The Mikado's Vase Race」が開催され、優勝馬主には天皇陛下から賞品が授与された。これが現在も続く天皇賞の前身である。

西郷従道は根岸競馬場の開設当初からその運営に深く関わっており、日本人馬主の第一号でもあった。
横浜レースクラブ(日本レースクラブの前身)の主催するレースに「オーナーズアップ」という馬主自らが騎乗するレースがあり、西郷従道は1875年の秋に開催されたこのオーナーズアップで愛馬ミカン号に跨って出走。見事に勝利を挙げた。
これが日本人馬主として、同時に日本人騎手として近代競馬の初勝利であると言われている。

なおこのエピソードはイギリスの漫画家チャールズ・ワーグマンが執筆していた風刺漫画雑誌『ジャパン・パンチ』でも取り上げられている。……ミカン号っていうか西郷従道がミカンになってる。

27 : トレーナーさん   2024/07/01 20:31:40 ID:dizTVYXtbs
もっとだ…もっとよこせバルバトス…!
28 : マスター   2024/07/01 21:46:57 ID:saVaoD16E.
ドバイの偉い人「ナド・アルシバに代わる新しい競馬場を作ります!形はアメリカや日本みたいな綺麗な形に!複合施設としてデパートやホテルもつけちゃうよ!」
建設の人「コースの長さどないします?」
偉い人「うーん芝コースを外側にして、周回コースは"一周を"2400mにしよう!ほらクラシックディスタンスとかいうじゃん?」
建設「ん、おかのした」

建設「できたよ!コースが!」
偉い人「でかし…このコース…何か変…」
外から見てた人「一周を"ちょうど"2400にしたらどこにゲート置くんや?」

偉い人「栗原ァァァァァ!!発馬機置けなぁぁぁぁい!!」
建設「お前が言うたんやろがボケナスゥ!!」
こうしてメイダン競馬場には2410mなる謎のコースが誕生した
29 : お前   2024/07/02 00:49:30 ID:r3v8LPMtKA
斉藤澄子。
1936年、23歳で騎手免許を取得した日本初、そして世界初の女性騎手である。

斎藤澄子は岩手県厨川村の農家に生まれた。このあたりは南部地方と呼ばれ、古来から「南部馬」という言葉があるように良馬の産地であり、馬が人の生活にも身近な存在だった。澄子は3歳の頃から馬に乗っていたという。

澄子の父が亡くなり、母も体を悪くしてから、斎藤家はみるみる貧しくなった。
澄子は14歳で学校をやめ、働きに出た。しかし働き先は当時若い女性がよくやる住み込みの奉公などではなく、父のかつての仕事仲間に弟子入りして馬喰(馬の仲買人)の見習いとなったのだ。
そして馬喰の仕事の中で盛岡にある黄金競馬場に連れて行ってもらい、そこで競馬を見ているうちに澄子は騎手という存在に強い憧れを持つようになった。

「騎手になりたい」
その夢は容易なことではなかった。女性差別のまだまだ強い時代であり、特に馬の世界では「女が寝藁をまたぐと穢れる」などとすら言われていた。
しかし澄子は一度火の付いた夢を諦められなかった。馬の扱いなら誰にも負けないという自信もあった。
澄子はある日、意を決して親方に自らの夢を打ち明ける。親方は澄子の話をちゃんと聞いてくれて、女でも弟子入りさせてくれる調教師はいないか、知り合いの馬主に当たってくれた。
そして福島競馬場で厩舎を構える本多調教師が条件付きで澄子を預かってもいいと言ってくれた。条件とは「女であることを隠し、男として修行すること」
こうして澄子は髪を短く刈り、胸に晒を巻き、男物の服を着て、福島へと発った。1929年、16歳のときである。
30 : トレ公   2024/07/02 00:50:52 ID:r3v8LPMtKA
福島で下乗り(騎手見習い)として働くことになった澄子だが、女が男のふりをするというのはやはり無理があり、2ヶ月ほどして澄子が女であることは厩舎の仲間達にばれてしまった。しかし仲間達は澄子が女であると知っても拒絶するようなことはせず、その強い気持ちに共感して応援してくれたのだった。
だが弟子入りから3年経ち、そろそろ騎手免許を受けられるという頃、師匠の本多調教師が脳溢血で倒れてしまう。厩舎は解散となり、澄子は志半ばで岩手へ帰ることになった。

だが、澄子はなおも騎手になる夢を諦めなかった。再び故郷を飛び出し、東京競馬場に厩舎を構える谷栄次郎に弟子入りし、1934年に騎手試験を受けた。しかし、学科も実技も合格点を取ったのに「女は風紀を乱す」という理由で免許の交付を認められなかった。
谷厩舎が京都へ移転すると、澄子も一緒に京都へ移り、下乗りの修行を続けた。京都競馬倶楽部の関係者は女性の騎手に理解を示してくれて、澄子は1936年3月にようやく騎手免許を取得することができた。福島で修行を始めてから7年の歳月を経て、ようやく夢を叶えたのだ。

……だが、澄子の夢は本当の意味では叶うことがなかった。
31 : アネゴ   2024/07/02 00:51:32 ID:r3v8LPMtKA
谷調教師は澄子のデビューは良い馬に乗せてやりたいと思い、管理馬の中からハコバンザイという馬を選び、その出走機会を見計らっていた。
そんな最中、農林省および帝国競馬協会から「風紀上問題がある」という理由で澄子の出場を禁止する通達が出された。この通達には、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が「女騎手出現」という見出しで、女性騎手がレース場で男性騎手を誘惑するかのような風刺漫画を掲載し、問題視されたという背景がある。
そして1937年に日本競馬会が発足すると、同会の規則に「騎手にありては満十九歳以上の男子」という規定が盛り込まれ、男子ではない澄子は自動的に騎手免許を剥奪されたのだ。

完全に夢を閉ざされた澄子は、谷調教師の厩舎で男装をしたまま厩務員として働き続けた。その後、中山競馬場の加藤調教師の厩舎に移り、そこでも厩務員の仕事をしていたが、1941年、肺血腫を患い世を去った。29歳の若さである。


男女平等が叫ばれて久しい現代。日本の競馬会では多くの女性騎手が活躍している。
JRA所属女性騎手として初めて通算100勝を達成した藤田菜七子騎手。
2022年にJRA最多勝利新人騎手賞を受賞した今村聖奈騎手。
永島まなみ騎手が2024年6月、マーメイドステークスで史上3人目の女性騎手によるJRA重賞勝利を挙げたのも記憶に新しい。

先駆者たろうとあがきながら、夢を阻まれ、無念の涙を呑んだであろう斉藤澄子騎手。
彼女が愛馬とともにターフを駆ける幻を、現代の女性騎手達の姿に重ねるのは、ロマンチシズムが過ぎるだろうか……。
32 : モルモット君   2024/07/02 10:06:53 ID:it68I8UgJc
他の人が書いてるような凄いエピソードは知らないので箸休め程度に…

競走馬のお名前シリーズ

①「これはびっくり」の実況でおなじみのダイサンゲン、もといダイユウサクは元々ダイ「コ」ウサクという名前で登録されるはずだった。
ちなみに由来としては馬主さんの孫の「幸作」さんから
ところが、馬名登録する際に書類を任された厩舎付の騎手が「コ」の字の下を長く書きすぎ、「ユ」として登録されてしまい、ダイユウサクという名前になったそうな。
ちなみにこの時やらかした騎手は誰あろう、熊沢重文。
後に有馬記念でマックイーン相手にジャイアントキリングを決める相棒で、引退式の時には件の「幸作」さんから花束を受け取るというシーンもあったりする。

②みんな大好きジャスタウェイ
名前の由来は銀魂の爆弾だが、版権とかが絡むと名前の許可が下りないことがあるので、申請の際は「Just a way」(その道)で登録されており、この時点でダブルミーニングになっているのは有名な話。
※爆弾の方も早く逃げろ(Just away)なので正確にはトリプルミーニング?
ちなみに海外では前後の文章で含みが色々変わるので、Just a way(そこは俺の道だ)とか、Just away(とっとと失せろ)みたいなダブルミーニングになっててカッコいいと思われたそうな。
33 : 使い魔   2024/07/02 10:34:08 ID:it68I8UgJc
競走馬のお名前シリーズ

③「犯罪皇帝」という厨二心をくすぐられる呼び方をされることもあるダービー馬クライムカイザー。
本来の名前は「皇帝に上り詰める」という意味だが、テンポイントやトウショウボーイといった人気のある馬がベビーフェイス扱いだったことや、ダービーに勝った時もトウショウボーイに詰め寄って強引に抜いたと言われる勝ち方(実際にはクライムカイザーが詰め寄ったのではなく、トウショウボーイがヨレた)からこのあだ名がついたそうな。
個人的にはめちゃカッコよくて好きなあだ名。

④父子三冠を決めた三冠馬「コントレイル」
名前の由来は飛行機雲(正式にはコンデンセーショントレイル、コントレイルでも通じる)だが、同じ意味の名前を持つ馬がいる。
その名もずばり「ヒコーキグモ」、お察しの方もいるだろうが小田切有一氏所有の馬である。
コントレイルほどの成績ではないが、こちらもきさらぎ賞を勝っていたり、スペとグラスが激闘を繰り広げた宝塚記念にも参戦している立派なオープン馬である。
34 : トレーナー   2024/07/02 10:37:53 ID:JV6ZaSmQ0w
>>33
ヒコーキグモの父がKeen(キーン)なの好き
35 : 大将   2024/07/02 20:37:15 ID:l4hWmrSuBc
今から5〜6年くらい前のアメリカで、普段のアメリカ競馬では見かけない変わった馬主の馬がG1戦線を沸かせていた。
その馬の名はニックスゴー。馬主は"Korea Racing Autholity Stud Farm"、つまり韓国競馬の運営組織KRAの生産牧場である(後にKRA名義となる)。
https://world.jra-van.jp/db/horse/H1966/

この頃の韓国競馬には、一つの悩みの種があった。それは以前より行われて遺伝子研究による馬の厳選計画・K-Nicksプログラムの停滞であった。
彼もまたその計画により選ばれた馬だったのだが、彼はこれまでの馬とは一線を画す活躍を見せていった。
2歳時のブリーダーズフューチュリティで初G1を獲得し、3歳では伸び悩むも4歳にBCダートマイルを逃げてレコードという強烈なパフォーマンスで優勝。5歳では7戦5勝4着2回・内ペガサスワールドカップ、ホイットニーステークス、そしてBCクラシックでG1・3勝を挙げ、エクリプス賞年度代表馬にまで登り詰めたのであった。
36 : 使い魔   2024/07/02 20:46:11 ID:l4hWmrSuBc
2018〜2022年頃、韓国競馬に更なる試練が襲いかかった。
2019年には日韓関係の急速な悪化によりコリアカップデー(韓国版BCをやろうみたいなやつ)への日本馬招待への圧力が生じ、結果的にKRAはレースの国際グレード化を捨てて(国際重賞になるにはあらゆる国家の馬が参加できるようにしなければならない)まで招待の打ち切りに踏み切らざるを得なくなった。
更に2020年・21年には新型コロナウイルス感染症の影響でレースそのものが中止となってしまった。
そんな中でのニックスゴーの活躍、他にも韓国調教馬の海外G1での好走などは、相次ぐ災難の中にいた韓国競馬に確かな自身と躍進をもたらすものであった。
https://keibadrive.com/horse/2830587/
37 : 相棒   2024/07/02 20:56:51 ID:l4hWmrSuBc
ニックスゴーは22年のペガサスワールドカップ2着を以って引退し種牡馬入りしたのだが、彼は本来の韓国での活動の予定を変更しアメリカで活動することとなった。
これは単に彼の産駒を走らせるだけでなく、アメリカで得た種付けの利益を更なる馬の輸入や生産・育成・その他設備や人材への投資に用いる為であり、またかつて輸入しまくっていたティズナウの全兄弟を血統に持つニックスゴーの子孫を導入し擬似的なティズナウの4×3または3×4、即ち"奇跡の血量"を実現させることも想定してのことだった。

韓国競馬に残る課題は今だに多い。引退馬の福祉や関係者の汚職、海外とのレベルの違いにそもそもの競馬への注目度の低さなど、その様は奇しくもKRAと縁の深い日本競馬がかつて悩まされた問題を追体験しているように見える。
それでもK-Nicksプログラムをはじめとした彼らの努力により、韓国産・韓国調教馬の躍進は確かに一歩ずつ前へ前へと動いているのである。
https://www.jairs.jp/sp/contents/w_news/2022/1/2.html
38 : トレーナー   2024/07/02 22:37:45 ID:l4hWmrSuBc
>>37
×ティズナウの
○ティズナウ産駒やその子孫に
39 : お兄さま   2024/07/02 23:01:30 ID:l4hWmrSuBc
今更だけどスマホからだと長文やりにくいなあ
あそこ削ってこっち書いてしてるうちにだんだん変な文になる
40 : マスター   2024/07/03 22:31:21 ID:vfyX.r65HE
4つのパート1国と大陸内での盛んな国際交流ネットワークを抱え、日本から種牡馬として輸出された馬たちの活躍や日本に輸入された繁殖牝馬の活躍が有名ながら、その物理的な距離ゆえに日本ではあまり有名ではない南米の競馬。
今では珍しいダートのL区分レースや芝ダート混成の三冠レースなど個性豊かな南米諸国だが、「アメリカのダートで活躍する」ことの名誉はどの国も変わらない。

2004年、南米の中でもブラジルなどと比べると些か地味なウルグアイにあるアルゼンチン産馬がやってきた。
"Invasor(インヴァソール/侵略者)"の名を冠する彼は連戦連勝でウルグアイの牡馬三冠レースを勝ち抜き、中東の大馬主シェイク・ハムダン殿下による引き抜きを受けアメリカへと駒を進めることとなった。
41 : あなた   2024/07/03 22:44:38 ID:vfyX.r65HE
三冠馬とはいえ基本的にアメリカよりレベルの低い南米ダート馬の、それもブラジルのようなパート1国でもないウルグアイの馬である彼へのアメリカ国民への関心は薄く、実際に移籍後初のレースであるUAEダービーでディスクリートキャットの4着に敗れるなど、アメリカでの船出は決して華々しいものではなかった。

しかし、ここから彼の"侵略"が幕を開ける。
アメリカでの初戦となる国際G1ピムリコスペシャルHで移籍後初の勝利を飾ると再び連勝街道を爆走。怒涛のG1・3連勝で一躍現役トップホースの一角に登名を連ね、遂には06年のBCクラシックを堂々たる大外からの捲り&撫で斬りで完勝。南米馬初のエクリプス賞年度代表馬に輝いた。
https://m.youtube.com/watch?v=G3ax2aZWwvg&pp=ygUHaW52YXNvcg%3D%3D
42 : トレーナーさん   2024/07/03 22:57:22 ID:vfyX.r65HE
アメリカを征服し次は世界とばかりに、陣営は翌年のドバイワールドカップをターゲットに選定。前哨戦のG1不利をものともせず快勝し、本番では因縁のディスクリートキャットや日本の当時のダート最強馬の一頭ヴァーミリアン、何故かやってきた香港の名マイラーのブリッシュラックらを相手に後続を大きく突き放した叩き合いを披露し、最後は歴代2位(ナド・アルシバ時代)のタイムで優勝。春秋のダートのトップレースを完全制圧してみせた。
https://m.youtube.com/watch?v=uTMmlSWRhh0&t=57s&pp=ygUHaW52YXNvcg%3D%3D
インヴァソールはその後故障により引退し、種牡馬としてはあまり活躍できず現在は故郷のウルグアイで過ごしている。その圧巻の活躍ぶりから彼はウルグアイの人々からサッカーの選手たちに等しい声援と人気を集め、今もなお彼の偉業はウルグアイの競馬ファンやスポーツファンに語り継がれているそうな。
http://lunameiba.blog.enjoy.jp/.s/jp/Invasor.html
43 : 使い魔   2024/08/13 16:05:10 ID:4yCGkIHQdg
あげ
44 : トレぴ   2024/08/13 17:39:09 ID:im.4hB/1Qk
ゴールドシップが2015年の宝塚記念で120億円分の馬券を紙屑にしたのは有名だが、
その祖父であるメジロマックイーンは1991年の天皇賞(秋)で140億円分の馬券を紙屑にしている
45 : 貴方   2024/08/14 13:13:11 ID:3idsH7wltY
2006年の12月、やっとその年の初勝利をあげたジョッキーが、その馬のオーナーにお礼の手紙を書きました
曰く「現役引退をする前にいい思い出ができました」

そのジョッキーはデビューしてから数年、まだ20代でしたが年間騎乗数が100も無く、勝てても1年頑張って2勝か3勝。
お金も稼げず生活費を賄うために持っているCDを中古屋に売りに行く、同僚のジョッキーから恥を忍んで借金するなど極貧生活を続けていたのです。
引退がちらつくのも当然でした。
そんな手紙を受け取ったオーナーはその騎手の電話番号を調べ、食事に誘い、ジョッキーにこう言いました
「わしは、この歳になっても馬主を続けている。このごろは馬にも恵まれないが、それでも諦めずに大きなレースを獲ろうと、馬主を続けていくつもりだ」
「それなのに君は、その歳で、もう諦めるつもりか」

このジョッキーとオーナーの名は、酒井学と二ホンピロの冠名で知られる小林百太郎。
翌年以降、酒井騎手は本格的に小林オーナーの馬に乗るようになり、小林氏も周囲からの「もっと上位の騎手を乗せては」の声に、
「ずっと(酒井を)乗せたれ!」と一蹴。二ホンピロの主戦ジョッキーとして名を売るようになっていきました。
そして時をほぼ同じくして、彼らは1頭の馬と出会います。
所有する繁殖牝馬はわずか3頭の、片岡牧場と言う零細と言っても良い小規模牧場で生まれたニホンピロルピナスの2007は、
母がそうだったように小林オーナーの所有となり、二ホンピロアワーズ(私達の物)と名付けられました。

この2人と1頭の物語は2012年、国内最高峰のレースの一つである、GⅠジャパンカップダート(現チャンピオンズC)において、ある帰結を見ることになります。
46 : 貴方   2024/08/19 14:51:22 ID:yQgeRNEeaA
偶然の出会いが人の人生を大きく変えることはあるが、それは人とサラブレッドの出会いでも同じである

1999年9月末、1頭のサラブレッドがオーストラリアで生まれた(南半球なので日本のシーズンから半年ずれる)
生まれた時から気性難、膝に故障を抱えたこの馬は全く売れなかった
最終的に3歳の終わり、ここで売れなければいよいよ廃用と言うタイミングのセリで遂に購入された
と言っても売却金は1250豪ドル+チップ1割。全部ひっくるめて当時のレートで約13万円弱と言うとんでもない安値である

購入したのはジョセフ・ジャニアックと言うオーナー兼調教師だった。
厳格に調教師試験を行い、定員も決まっている日本の中央競馬とは違い、豪州は兼業の調教師も多い。調教師だけで1年食える人物は稀だ
このジャニアック師もそんな1人で、朝はパン屋でバイト、昼に馬の調教、夜はタクシー運転手と言う三足の草鞋。当然資金などなかった。
それでも彼は捨て値で買ったような馬になけなしの金をはたいて3度の手術をし、ひざの故障を治療し、気性難のために去勢もした。
しかし膝の故障はこの馬の現役期間中、ずっと付き合っていくことになる
気性難も治らず、最初のゲート試験では暴れまくってジャニアック師の頭部を思い切り蹴り、30針も縫う事になった。
それでも彼は悪たれ小僧を見捨てず、辛抱強く調教を続けた
魅力的な投資対象、「Takeover Target」と名付けられた馬は2004年4月、4歳になってようやくデビューにこぎつけた
そこから彼らの快進撃が始まる
47 : 貴方   2024/08/19 14:51:41 ID:yQgeRNEeaA
デビュー戦を7馬身差で圧勝、そのまま4歳は6戦全勝。膝の故障を抱え続けながら5歳にしてGⅠ初制覇。
6歳時にはオーストラリアの最優秀短距離馬に表彰。7歳で来日、スプリンターズSを制覇し、レーティングは短距離馬で世界1位に。
豪、英、日で走り続け、9歳で引退するまでに走ったレースは41戦、勝利数は21勝(うちGⅠ7勝)の押しも押されぬ名馬となった。
ジャニアック師はTakeover Targetが稼いだ賞金で専業調教師として暮らせることになり、Takeover Targetもまた、15歳で亡くなるまでジャニアック師の下、穏やかな余生を過ごした

本当の出会いなど、一生に何度あるだろう?

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